【しるくわ日記】No.20 大分県の 養蚕の歴史 14
シルクワームのサンライズがある九州大分県の養蚕の歴史です。
大分県の 養蚕の歴史14 昭和初期 太平洋戦争前後
大分県の太平洋戦争(第二次世界大戦)前後に刻まれた養蚕の歴史です。
世界的な大恐慌で苦しんだ養蚕の特約組合は、戦時中に農業会に吸収されてしまいます。そして、食料やパラシュート生地用の糸の生産に携わります。
戦後、農業協同組合が発足する段階となり、次の時代へと移りました。
昭和初期の世界的な大恐慌
海外への輸出が主だった製糸産業は、景気の影響を受けやすい産業でした。
昭和5年の世界的な大恐慌では、前年の半分以下に価格が暴落。その負担が、特約組合の養蚕農家を襲いとても苦しい状況が続きました。
繭の価格 一貫(3.75kg)あたり
昭和4年:6円90銭
昭和5年:3円(暴落)
昭和8年:5円40銭
昭和9年:2円60銭(暴落)
昭和初期の物価(昭和5年~15年頃)
白米10kg:1.2円~3.3円(現代3,946円)
たまご10個:41銭~71銭(現代250円)
コーヒー1杯:10銭~15銭(現代420円)
ビール(瓶):38銭~45銭(現代380円)
新聞:90銭~1.2円(現代4,037円)
大卒初任給:73円~80円(現代20万円)
太平洋戦争の時代に農業会で食料を生産した養蚕農家
戦争が激しくなった昭和18年に農業団体法が成立。特約組合は、新しくできた全国的な組織の農業会に吸収されます。
農業会では、養蚕組合の他、色々な農会や、産業組合、畜産組合、茶業組合等がまとめられ、戦争中の農産物の生産が、国の元で管理されるようになりました。
敗戦の色が濃くなった昭和十九年には、食べ物の生産が重要となります。養蚕農家も、養蚕より食べ物の生産が優先になり苦しい時代は続きます。
戦争中の生糸(シルク)の需要
質素な、国民服やモンペで暮らす時代に生糸(シルク)の需要はほとんどなくなりましたが、海軍のパイロット(搭乗員)がつかうパラシュート(落下傘)の素材に薄くて強いシルクの布が使われました。
シルクの布は、滑りやすく質の良いパラシュートを作るのに最適だったそうです。
戦争が終わり農業会から、農業協同組合へ
第二次世界大戦が終わると、占領軍の政策で農民解放指令が出され、農業会は解散します。
その後、農業協同組合(後のJA)が登場し現代へと続いて行きます。
この頃から、養蚕農家と大企業の立場による負担も、解消されるようになって行きました。
【しるくわ日記】養蚕の歴史シリーズ 目次
竹田市の養蚕の歴史2 万治年間(1658~1660)岡藩に養蚕業興る
竹田市の養蚕の歴史3 天保年間(1830年から1844年頃)養蚕の復興
竹田市の養蚕の歴史4 文久年間(1861年から1864年)馬淵小源次と水力製糸
江戸時代
明治時代
大正時代
昭和初期
連載予定
大分県の養蚕の歴史 現代